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セメントの坪があった頃

別館GM作業室です。本館の最近の曾宮一念の作品や写真のご紹介によって、諏訪谷の姿や変化について、考察が深められるようになってきました。そこで、制作83年目の佐伯祐三の「セメントの坪」(1926年10月23日制作)と当時の諏訪谷について、別館でも改めて見直してみようと思います。まず、現在知られている資料の幾つかを時系列順に見ていくと、次のようになります。

一万分の一1923002.jpg1921年? 僅かしか諏訪谷には家が無い。622番地の曾宮アトリエ南の道の道筋は現在と異なり、西へ向かって登り、731番地のお宅の北に滑らかに抜けている。
E5A495E697A5E381AEE8B7AF1923.jpg1923年 曾宮一念「夕日の路」 浅川塀を正面に見る曾宮アトリエ南の折れ曲がる道は、荒々しいものの 現在とほぼ同じ道筋になったと思われる。道の右手の諏訪谷は急に落ち込んではいないらしい。
E586ACE697A51925-da3ca.jpg1925年1月 曾宮一念「冬日」 諏訪谷の中の洗い場は、まだ埋立てられていない。しかし、庭から見下ろして描いたという曾宮の視線より低い位置に(右手前)、既に家があることが注目される。
Google諏訪谷/up用.jpg現在の諏訪谷 道筋は1938年の火保図・1947年の空中写真とほとんど変わらない。


さて、初めに諏訪谷近辺にある問題として、先日の『諏訪谷に面した曾宮一念邸を拝見。』『佐伯祐三の「浅川ヘイ」を考える。(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-10-08) 』で触れられた、1926年には第六天の東側の道筋が、現在とは異なり少し東に寄っていた、という御指摘に賛同したいと思います。一万分の一も、それを示唆するようですが、1947年の空中写真でも確認出来る、高嶺邸と内藤邸に挟まれた家(仮にM邸とする)の向きが、1947年の道に沿っていない事も、その証左になるように感じます。

1947諏訪谷/M邸.jpg

この今とほぼ変わらない、第六天の境内(緑色の部分)のどこに鳥居を立てても、「セメントの坪」にあるように、曾宮邸敷地にある電柱の左手に鳥居が来る描画ポイントはなく、といって現存高嶺邸をはじめとする多角的な状況証拠が重なる、この絵の光景がこの場所以外であることは、ありえないでしょう。

セメントの坪/R邸.jpg

現在、諏訪谷の周囲は、ほぼ切り立った擁壁で囲まれ、曾宮邸南の道に面して入り口を持つ家々も、谷の下から建ち上がる構造になっています。しかし、「セメントの坪」の右端に覗く家(仮にR邸とする)は、違っています。緩斜面上であるとしても、道とフラットな地面の上にあると思われます。ここは、曾宮一念の「夕日の路」の右手の叢と繋がってくる場所でもあります。
先程の1947年の空中写真や聖母病院も写るスナップ写真(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2008-09-03)を見ると、戦後すぐの諏訪谷の周囲は殆どが急な土手であり(上の空中写真のオリーブ色の部分)、第六天の西側だけが大谷石かコンクリの絶壁であったようです。しかし、1926年の時点では、どうだったのか、R邸の事を考えると違ったのではないか、というのが次の問題です。

事情明細図/土手.jpg

事情明細図は、1926年半ばの現状かと考えられるのに、佐伯の絵にある、家々が密集した雰囲気とは、随分異なります。しかし、事情明細図は、そこに誰かが暮らしている事が判明している所でも空欄にしている場合があり、書き込みが無い事が空地である事を意味する訳ではありません。しっかり表札が出ている家は採取してある、という事なのでしょうか。そう考えて諏訪谷の様子を見ると、洗い場は既に移動され、第六天脇から谷に下りクランクする道等も出来、宅地化の基本整備は済んでおり、既に建った家と共に、まさに建設中の家々があった、という状態であったと考える事が可能です。そして、そのような事情明細図の「諏訪谷の中」に土手と土地の段差を示すらしい表現がある事(草色の部分)が、注目されます。この土手や段差を空中写真に移すと、どうなるか思案してみました。

1926諏訪谷/土手.jpg

事情明細図でアールのある土手として描かれ、曾宮アトリエ南の道が大きく曲がる所、R邸のあたりでは、土手が「曾宮邸南の道沿い」ではなく「R邸の南」にあったと考える事が,可能ではないかと思われるのです(緑の部分)。谷の中での小さな段差については、現在もそうであるように、実際にはもっとあったものが、事情明細図では省略されていると思われます。
また、諏訪谷の開発地の周囲は当初みな土手、即ち、大六天の西と谷底の造成地の間も土手であったのではないかと、私は考えています。これも事情明細図には描かれていませんが、描き込むスペースが狭すぎるからか、整地の途上だったからか、単に略したのか…。そう考える大きな理由として「巨木の移動」問題(http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2007-05-08)がありますが、今は「セメント坪」には巨木は描かれていない、という事だけ押さえておこうと思います。
さて、このように土手による初期の造成がなされていたならば、谷へ下りる道の入口で、両側の斜面に落っこちないために、「坪」が必要となります。谷へ下りる道は、大六天西土手が絶壁でない分、少し西にある筈でもあり、道の入口は「坪」の折れ曲がる所にあった、と想定してみました。諏訪谷へ下りる道の入口が現在のままの位置であったとしたら、佐伯の絵の坪の屈曲部の左手に、それが描かれてしかるべきなのに、その気配がないのは、おかしなことでした。しかし、このような土手で囲まれた諏訪谷造成地と「坪」を想定するとき、諸々の謎が解けるように思えるのです。
佐伯が描いた「セメント坪」の当初の姿は、恐らく長くは存在しなかったことでしょう。大六天東の道筋や交差点付近の変更、大六天西の土手の擁壁化(=大六天敷地のミニマル化・諏訪谷の底の宅地の拡大・巨木の移動)は、1930年代前半までには完了していたと考えられるからです。佐伯は、それを知ることはなかったけれど、1926年秋の変化していく諏訪谷を、正に捉えた作品を描いたと考えられます。



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ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんにちは。
ものたがひさんがおっしゃるように、佐伯が『下落合風景』の「セメントの坪(ヘイ)」や「浅川ヘイ」を描いた1926年(大正15)10月23日の時点と、最終的に諏訪谷の宅地造成および住宅建設計画が完了した昭和初期の時期とでは、かなり大きな風景的違いがあると思います。
換言しますと、大規模な谷戸の改造工事の真っ最中に、佐伯はこの谷の様子を1926年の秋から翌年の初め(冬季/前年の12月にも降雪日があるので前年中の作品かもしれませんが)にかけて、連続して写生しているのだと思います。そして、佐伯作も含め画家たちの作品に描かれた風景と、現在につながる風景とは想像以上に大きいのではないかと想像しています。
その違いは、1923年から25年あたりにかけての曾宮一念による一連の作品から、佐伯作との間にある大きな風景差、そして佐伯作から「火保図」や空中写真にみる大きな風景差を考慮しますと、ほとんど「諏訪谷全体改造計画」というようなものが存在した可能性さえ指摘できますね。

>「セメントの坪」の右端に覗く家(仮にR邸とする)は、違っています。
>緩斜面上であるとしても、道とフラットな地面の上にあると思われます。

曾宮一念の『荒園』(1925年)の、巨木が生えた諏訪谷の斜面を見ますと、当時の谷戸の突き当たり、傾斜地の様子がわかりますね。現在のように、大谷石(一部はセメント)による絶壁状の雍壁が存在しない、地面がむき出しの斜面の風情が見て取れます。同時に、佐伯の「セメントの坪(ヘイ)」においても、いまだ巨木が移植されていないことから、大六天西側の斜面の工事がなされていなかったことが想定できます。
つまり、諏訪谷の三方を囲む斜面の整備・改造が最終的に完了したのは、佐伯が同作を描いた少しあと、第2次渡仏のあとか、あるいはひょっとすると死後のことなのかもしれません。

>書き込みが無い事が空地である事を意味する訳ではありません。

わたしも同感です。あといくつかのテーマとしては、1926年の「下落合事情明細図」が同年のある時期の様子を一気に採取し、瞬時に切り取ったかのように発行された・・・と考えるよりも、同年の初めあたりに企画され、半年あまりの制作リードタイムをかけて旧・下落合全域の道筋や家々を調査し、ようやく秋に発行しているのではないか・・・という想定が1点。もうひとつが、佐伯が造成中の住宅地を描いているとすれば、建築中の家々には当然表札など存在せず、採取のしようがなかったからだ・・・ということにもなります。

>「R邸の南」にあったと考える事が,可能ではないかと
>思われるのです(緑の部分)。

その可能性はありますね。現在の低層マンションのあるあたりが、R邸のあったあたりということになるのでしょうが、現在はちょうど2段にわたるひな壇状に造成され。谷北側の斜面はコンクリートの絶壁に近い雍壁、あるいは土面がむき出しの超急斜面状となっています。本来、ゆるやかな斜面状だったものを(といっても、けっこう急斜面だったでしょうが)、諏訪谷造成のある時点で、現状に近いひな壇状の住宅敷地に改造している可能性は高いと思われます。

>谷へ下りる道は、大六天西土手が絶壁でない分、少し西に
>ある筈でもあり、道の入口は「坪」の折れ曲がる所にあった、
>と想定してみました。

わたしは、現在では左側の曾宮邸前に描かれた電柱の陰、「坪(ヘイ)」が左右に分かれている部分に、谷間へ下りる坂道が隠れているのではないか・・・と考えています。ただ、大六天のものと思われる「坪(ヘイ)」と野村邸のそれが、ひとつながりに見えるところが、その後このあたりの開発によってどのように変貌したのか、あるいは大六天そのものにセメントの「坪(ヘイ)」があったとすれば、それはどのような形態のものであったのか・・・、ますます興味が尽きませんね。

by ChinchikoPapa (2009-10-25 17:14) 

ものたがひ

多くの問題についてのコメントとnice!を、ありがとうございました。なかでも、曾宮一念の『荒園』(1925年)についての御指摘は、よく見直していなかったりしたもので(爆!)、さっそく『冬日』と共に検討しています。
セメント坪については、私は大六天だけのものだったのではないかと思うので、野村邸との問題は発生しないのです。火保図の野村邸の場所は、まだ大六天に続く斜面であったのではと。大六天と民家が、お揃いの坪にする(汗)というのは、なにか違和感があります。人がまだ、谷の中に住んでいなかった頃の地形と思われる、1909年の地形図の等高線も参照しながら、諏訪谷へ下りる道の作り方や、諏訪谷全体の変化の問題を、もう少し考えてみようと思っています。ありがとうございました。
by ものたがひ (2009-10-26 14:50) 

ChinchikoPapa

谷間へ下りる道幅の問題、あるいはわたしの想定ですと大六天と野村邸の、「セメントの坪(ヘイ)」の問題と、大正末の様子がつかめないぶん、さまざまな想像が働きます。野村邸のセメントの「坪」の痕跡は、昔の質のいい大粒の河原石が混じったコンクリートの痕跡を、いまでも「く」の字に屈曲した東側の、ところどころで確認できるのですが(その痕跡を、記事の末尾へ掲載しておきます)、大六天の敷地に関しては、そもそも敷地が大改造されていると思いますので、谷戸突き当たりの大谷石による築垣工事や、その後の消防倉庫の設置、町や講の集会場の設置などで、その痕跡すら見出すことができません。
ただ、わたしもものたがひさんも想定しているように、現在の狭苦しい大六天の境内は、諏訪谷の開発をすっかり終えたあとの姿であり、大正期はもっと境内も広く、まったく異なる姿をしていたんじゃないかと思いますね。
余談ですけれど、この大六天の位置は、本来は弁天社か稲荷(鋳成)社が位置するであろう谷戸上(あるいは谷戸の斜面か下)にあるべきものであり、現在の位置へ移されたのは江戸期あたりではないかと思うのです。しかも、もともとの弁天か稲荷(鋳成)を、ある時期の疫病かなにかの流行により、大六天へと奉神変えしているような印象を覚えます。それが、江戸期なのか、あるいはそれ以前なのかはわかりませんが・・・。
by ChinchikoPapa (2009-10-26 17:42) 

ものたがひ

河原石、いいですね!早速拝見に伺いました。
1911年の逓信協会の地図に、現在の大六天の直下に水源がある様子が描かれているので、もしかすると、位置は今と同じ谷の北東隅あたりに、昔々弁天社があったかも、などとも思いました。謎だらけですね。^^
by ものたがひ (2009-10-27 11:57) 

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