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「高田馬場」の佐伯祐三

別館GM作業室です。
明治末.jpg

本日は、佐伯祐三が谷中真島町(http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2011-11-10)の次に住んだところとして知られる、「高田馬場」の下宿について考察したいと思います。後に妻になる米子によると、それはこんな所でした。

  その後、高田馬場に部屋を見つけて移転しました。その頃の高田馬場は、今から思えば
  想像もつかないほど閑静なところで、一里も続いているような雑木林が、ゆるやかな起
  伏のある丘とともにひろがり、春夏秋冬それぞれ林の眺望は変化に富んでいました。そ
  うした美しい林の入り口の家をたずねて集まったお友達は、江藤純平さん、山田新一さ
  ん、亡くなった佐々木慶太郎さん、深沢省三さん、その他の方々でした。
                           (「佐伯祐三のこと」1957)

  戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたりは、その
  頃、戸山ヶ原と言いました。ゆるやかな起伏ある勾配に、雑木林が限りなく続き、昔の
  物語が秘められている静かな風情は、とても都内とは思われませんでした。この林のほ
  とりの家の一室を借りて勉強し、ここから美校に通っていた頃を知っております。
                           (「佐伯祐三のこと」1963)

1921.jpg

米子の述べる高田馬場の家は、上の左の地図の下方の細長い水色の形の中にあったと考えられます。高田馬場の南方には、山手線の内側にも外側にも、ゆるやかな起伏の「戸山ヶ原」の林のほとりと呼べる場所がありましたが、「戸塚の一角」で、戦後「白いアパート群が重なりあって建ち並んでいるあたり」の人家で、風情が良さそうなところがというと、水色のあたりが該当するからです。

「戸山ヶ原」の概念は、もとは、はるか東にあった尾張徳川家の戸山御屋敷(現・戸山1~3丁目)に由来する筈です。しかし戸山が陸軍用地となって後、陸軍の施設の拡大に追われて、明治期末頃には西大久保(現・大久保3丁目。旧・諏訪町の南)、更に大正期以降になると山手線を越えた大久保百人町(現・百人町3~4丁目。旧・戸塚町と大久保町)の雑木林の一帯をも指すように変遷しています。少し前のエリアを戸山ヶ原と認識しつづける人もあれば、米子のように、現・百人町4丁目を戸塚の戸山ヶ原と呼ぶ人もありで、現在は再び戸山の名前をつける範囲が戸山御屋敷に回帰しているだけに、昔の記述がどこを指しているかの判別が、ちょっとやっかいになっています。

さて、佐伯と出会って直に恋に落ちたという米子は、谷中真島町の下宿も、戸山ヶ原の「四季」も知っていました。19世紀生まれで東京女学館卒の良家の子女系だからか、米子は恋愛時代のことを多くは語りませんが、つまり、おそらく佐伯は第2学年の頃(1919年夏から1920年の初夏頃。当時の美校は9月から新学年が始まる)に1年間ほど、戸山ヶ原のほとりに住んでいたということになりそうです。下限としては、1920年の夏休みの帰阪前に、既に、佐伯は本郷弥生町の大谷家に下宿先を移していることが山田新一の証言によって知られています。

上にある地図の左のものは1921年測図の一万分一地形図です。右は1916年の測図のものです。この辺りの山手線の西側一帯で、1910年代後半になって急激に郊外住宅の開発が進んでいることが分かります。画家たちも、それと軌を一にして居住していく様子が伺えます。佐伯の美校の同級生としては1920年までに、二瓶等が下落合にアトリエを建てており、山田新一は地図を僅かに北に外れた池袋に暮し、深沢省三も1920年秋以降に目白と池袋の間位に越してきています。佐伯たちより4級上で1919年3月に卒業となる里見勝蔵らの学年の美校生も何人か、1910年代の後半に池袋に住むようになっています。山田の場合は、その里見に誘われ池袋に転居したのでした。

佐伯が、なぜ高田馬場/戸山ヶ原に転居したのかについては、先の米子の文章がその事情を物語っています。谷中時代に佐伯と米子は、どちらも局留めにした手紙を交わしあう熱愛状態にあり、学校生活にも慣れ、ブームになりつつあったといえる郊外転居は、実はなにより雑木林を米子と二人で心おきなく散策するためでもあったと思われるのです。米子は、下宿を訪ねてきた級友たちのことも、よく知っているのでした。
佐伯には戸山ヶ原の風景を描いたという作品もありますが、人物も静物も盛んに描いていたようです。日々キャンバスを抱えて外に飛び出す佐伯が誕生するには至っていない高田馬場時代でしたが、北へ北へと歩けば下落合に至る場所に暮した高田馬場時代なのでした。


補:「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」考

戸山住宅.jpg
米子の「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」と述べた場所について、もう少し詳しく考えてみました。白いアパートが建った場所を1963年の空中写真であてはめてみると、上の図の様になります。山手線の東側のアパートは射撃場の中に建っており、諏訪通りを北に越えた辺りの家の事を、林のほとりと言えなくはないかもしれませんが、やや苦しい気がします。
山手線の西については、米子さんは、「戸塚」について正しく表記していました。よく確認したら、現・ 百人町4丁目は、もともと大久保村ではなく戸塚村に属しています。現・4丁目は「百人町」とつくのに、もともとは大久保ではないのでした。ブルーのエリアは、1975年に現在の町名が施行される以前は、長く戸塚3丁目ないし戸塚4丁目であり、戸塚の戸山ヶ原という認識をもつ地域の人々がいて、当然の場所だったのです。大きな曲線状に整備された諏訪通りができ、林のほとりの家は消滅し、町名も大きな道路による分断に適応して変化したのでした。私としては、「戸塚の一角」が、ブルーのエリアのどこかであるとの心証が確実になってきました。また本文の表現の一部を、米子さんに謝しつつ訂正致しました。(2011.11.14)


タグ:佐伯祐三
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ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんばんは。
佐伯の高田馬場下宿というのは、わたしも漠然と諏訪町側の戸山ヶ原エリアかと考えていました。ひとつは、牛込界隈に住んでいた画家たちのスケッチポイントが、山手線をはさんだ西側(西大久保・東大久保の北側)だったため、そのようなイメージが形成されていたのかもしれませんね。ただし、小島善太郎だけは山手線西側の戸山ヶ原を、下落合の実家へもどるときに何度も往復していますので、彼の文章に登場する大正初期の「戸山ヶ原」は、西側の情景が多いように思います。
米子夫人の文章を注意深く読んでいませんでしたが、「白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」は、山手線の西側のように思えますけれど、ひとつ気になるのは1963年現在ですと山手線東側の戸山ヶ原にも、「白いアパート」が線路沿いにすでに建っている点です。ちょうど、諏訪町ガードのすぐ南側あたりですね。1950年前後は、西側だけのアパート群ですが、60年代に入ると東側にも出現していますので、米子夫人は、さて、どこの「白いアパート」のことを指しているのか、ちょっと気になりました。
もし、山手線西側の戸山ヶ原に隣接した森(上戸塚の南側)だとしますと、山手線を超えて射撃場から撃ち込まれる実弾の着弾地だったエリアに近接していることにもなりますので、そのあたり当時の射撃演習とからめて、実情はどうだったんでしょうね?
百人町に隣接し、北側に陸軍科学研究所や陸軍技術本部などの建物ができる前の情景でしょうから、あたり一帯はほんとうに武蔵野の雑木林だらけだったように思えます。
by ChinchikoPapa (2011-11-13 19:15) 

ものたがひ

アヨアン・イゴカーさま、ご訪問とNice! を有難うございました。
by ものたがひ (2011-11-14 00:03) 

ものたがひ

kiyoさま、いくつものご訪問とNice! を有難うございました。

by ものたがひ (2011-11-14 00:04) 

ものたがひ

C.P.さま、コメントとnice! を有難うございました。米子の証言には、特に年代に関して、当事者なのにどうして?!という誤りがあり、佐伯研究に混乱をもたらしていましたが、記事で引用した部分の「戸塚」については、「諏訪」と混同されることのない「戸塚」ではないか、という想定を前提として考えています。なんといっても米子は長く御近所で暮しているので。そして、山手線の東側で戸山ヶ原に接するのは、ほぼ「諏訪」で、その「諏訪」の南の方にも、確かに「白いアパート」は少し建ちますが、米子の文章からは、広いエリアに建ち並ぶ、線路の西の「戸塚」に南接するエリアの事を指しているような心証を持ちました。
射撃場問題では、当時、どれくらいの頻度で実弾が飛びかう射撃がなされていたのかを知りたいですね。射撃訓練中、線路の西では流れ弾の危険があったといっても、線路の東は、まさに射撃訓練中の立ち入り禁止区域になっていたわけです。戸山ヶ原をのどかに散策する人々の写真が幾つも残っていることと射撃がどういう関係になるのかは、継続調査事項といたしましょう。
by ものたがひ (2011-11-14 00:53) 

ChinchikoPapa

こんにちは。
当事者なのに、佐伯の卒業年や娘の誕生年を間違えないでほしいのですが^^;、確かにあやふやなところがあります。
「戸塚」は、下落合の南、百人町の北が「上戸塚」ですが、もうひとつ山手線の東側で戸山ヶ原に接した「下戸塚」もありますね。そして、「諏訪」は戸塚町大字諏訪(つまり「諏訪町」も「戸塚の一角」だったわけで)と大正末から昭和初期にかけて呼ばれていましたので、米子夫人が「戸塚」と表現するときに、ちゃんと戦後のエリアを規定して表現しているのか?・・・という危うさを感じたりもするのです。
by ChinchikoPapa (2011-11-14 12:07) 

ものたがひ

C.P.さま、コメントをありがとうございます。「戸塚」問題は、米子さんに対する偏見を改めなければいけませんでした。ブルーのあたりの戸山ヶ原は、「戸塚」の南ではなく、まさしく「戸塚」でした。補:「戸塚の一角、現在は白いアパートの一群が重なりあって建ち並んでいるあたり」考、を本文の末尾に加えましたので、ご参照下さい。
by ものたがひ (2011-11-14 14:34) 

ものたがひ

SILENTさま、ご訪問nice! をありがとうございます。
by ものたがひ (2011-11-14 14:42) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、こんばんは。
確かに、戸塚町(上戸塚)の一部が知らないうちに、大久保百人町4丁目に化けてしまってますね。山手線西側の戸山ヶ原は、戸塚町と大久保町とで“_「”字型の妙なかたちに境界線が引かれていますが、もともとなにか意味のあった町境(村境)なんでしょうかね。上戸塚の南側が削られたのは、町の自治体が「解散」して関係なくなり、文句もあまり出なくなった1947年の淀橋区→新宿区あたりでしょうか。
もうひとつ、佐伯が「高田馬場に一時下宿」という表現が多いのですが、これは現在の住所表示(高田馬場4丁目)をもとに(戸塚の旧居跡住所が判明しているのが前提で)記している地名なのか、それとも小林勇の柳瀬正夢資料と同様に、単なる最寄り駅の表記にすぎないのかも、ちょっと気になるところです。この時代のはっきりした住所は、書簡類でもわからないんでしょうか。米子夫人の手元には、佐伯からの手紙が残っていそうな気もするのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2011-11-14 23:41) 

ものたがひ

kakasisannpoさま、ご訪問とnice! をありがとうございます。
by ものたがひ (2011-11-15 23:16) 

ものたがひ

ぼんぼちぼちぼちさま、ご訪問とnice! をありがとうございます。
by ものたがひ (2011-11-15 23:17) 

ものたがひ

ChinchikoPapaさま、コメントをありがとうございます。戸塚町と大久保町との境のカクっとした形については、私は推測として、自然地形とも関連して、古くから境になっていたのかな、と思っているだけです。一方、戸塚町の中に、民家と陸軍省用地の境目として出来たカクカクカクっとした形(佐伯の住んでいたであろう水色のエリアの所)は、日清戦争の後、射撃場からの流弾被害への抗議をうけて陸軍省が用地を買収した際に、買収の都合上、出来てしまった形ではと考えてきます。射撃場の移転を請求する人々、周辺地の買い取りを求める人、買収に応じない人、諸々ある中で生じた、へんな形ではないかと思っています。
戸塚4丁目は1947年には存続し、1975年の住居表示の変更の施行時に、百人町4丁目になってしまったようです。諏訪通りによる生活圏の分断が、既成事実になっていたからでしょうか。
佐伯が「高田馬場」に住んでいた、という言い方については、通学に山手線を使う訳ですから、佐伯もしていた可能性があると思います。最寄り駅を言えば、どこに住んでいる人にも分かり易いという状況が、もうあったように思います。
米子さん宛の手紙が残っていたら…、住所も住所ですが、佐伯が一体どんなラブレターを書いたのかが気になりますね。w
by ものたがひ (2011-11-16 00:14) 

SILENT

ものたがひ様
佐伯祐三大磯にも別荘を借りていた。落合道人さんの様のブログにも大磯の記述詳しくありましたが、我がブログでも取り上げました。佐伯と薩摩治郎八との真実が判れば面白いとは思うのですが
事実は不明ですね。都内の昔の様相興味深く読ませていただいています。http://silentsilent.blog.so-net.ne.jp/2011-07-21
by SILENT (2011-11-29 14:56) 

ものたがひ

SILENTさま、コメントとnice! を有難うございます。歴博の佐伯展の手紙は面白かったですね。昔は皆、手紙を始終書いていたのかもしれませんが、佐伯がマメに手紙を書いている様子を想像すると、なんだか妙な気分です。
by ものたがひ (2011-11-30 19:36) 

ものたがひ

ENOさま、nice! を有難うございます。
by ものたがひ (2011-11-30 19:37) 

ものたがひ

タッチおじさんさま、(。・_・。)2kさま、ネオ・アッキーさま、ご訪問とnice!を有難うございます。ご挨拶がおそくなって、すみません。_( _ _ )_
by ものたがひ (2014-07-13 08:45) 

ものたがひ

さらまわし様、ずっと書いていませんでしたのに、nice!を頂き恐縮です。ありがとうございます。
by ものたがひ (2015-01-19 16:13) 

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