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『商店が途切れる目白通りはどこ?』補遺

別館G.M.作業室です。ご無沙汰お許し下さい。(p.c.とスキャナが繋がらないなどという、オバカな理由で、アライアンスが遅滞していました。)
さて今日は、『目白通り…』について、まだ検討していなかった資料をupして、考察をすすめたいと思います。

この地図は、「一万分一地形図 大正十年第二回修正測図同十四年部分修正」です。1926年7月30日に発行されています。つまり、内容としては1925年、発行日から見ると、佐伯祐三の下落合風景(1926年の春以降、1927年の夏以前の滞日期に描かれている)を考察する資料として良い感じのものなのです。(実は、目白文化村や第三府営住宅が全く書き入れられていなかったり等、1926年の状況を反映しているとは考えられない事は目につきますが。)

では、この佐伯の絵の、やや右の方に描かれている家と描画ポイントをマークしながら、問題点を整理していきます。
本館C.P.さまは、地形図の赤紫の丸の辺に、この家があるとされています。一方、別館の私は、藍色の丸の方ではないかといたしました。指印は、それぞれの描画ポイントです。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-06-08 http://blog.so-net.ne.jp/art_art_art/2006-06-08
(前回の議論の過程で、東西逆転問題が生じましたが、ひとまず凍結いたします。道のカーブの具合も考慮すると、簡単に光の向きだけを重視することもできない、とも思い…。)
事情明細図でも、おさらいすると、以下の通りとなります。

事情明細図によって、二つの描画ポイントから見た目白通りの商店街の様子を比べた時は、若干、西寄りの私のポイントの方が商店が少ない感じ、商店名の記入が少ない感じで、絵に近い様でした。とはいえ、実際にどのような店舗があったのかは不明である、との本館の御指摘も、事情明細図のあり方から見て尤もで、決め手を欠いていました。
しかし、地形図によって、描画ポイントから見た目白通りの様子を捉えると、両者は随分異なってきます。
本館の描画ポイント(赤紫の指)から見ると、目白通りには、既に家屋が建ち並んでいます。地形図にこのように書き込まれているということは、1925年以前に、既に、しっかりした家屋ないし店があった、ということではないでしょうか。地形図への家の書き込みが遅れる、ということはあっても、無いものを書くとは、通常考えられません。
一方、私の描画ポイント(藍色の指)から見ると、目白通りに家はありません。佐伯が絵を描いた時点とのタイム・ラグを考慮しても、注目すべき状態と考えます。
更に、もう一つの事に、私は注目したいのです。それは、藍色の指の指す辺の道に付いている符号です。

緑の丸印は、「並木」です。赤いポツポツのついた線は、恐らく「行樹」です。恐らく、と歯切れが悪いのは、よく似た符号に、「牆(土ベイ)」があるからです。しかし、1910年発行の地形図で、この辺に「並木」があることなどから、「行樹」とすべきではないかと、私は考えます。(ところで、「並木」と「行樹」の違いは一体なんなんでしょう?)
佐伯の絵に戻ります。道の右手に描かれているのは、まさに「並木」か「行樹」です。この一致は重要だと考えます。すると、地形図の藍色の丸のある所の家のシルエットも、絵の家を、簡略化して書き込んだ様にも思えます。謎の「落合医院」なのでしょうか。家の周りにある緑の丸っこい線は「叢樹」の符号です。これも絵と一致します。地形図をよく見ると等高線も分かりますが、画面中央の人の辺が一番高くなるごくゆるやかな坂のようで、これも合っていそうです。
1926年発行の地形図の検討をしてみて、藍色ポイントからなら、これだけ状況の一致が認められる、とG.M.は主張するのでした。


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ChinchikoPapa

ひとつには、「下落合事情明細図」(1926年・大正15)を見る限り、わたしの目白通り沿いの描画ポイントにも、また落合医院(稲葉邸かな?)のある目白通り沿いにも、商店と思われる記載があるということです。落合医院(稲葉邸?)の前には、1926年時点で「ツバメヤ」「越後ヤ」「○加堂」などの商店と思しき記載が見えますけれど、ひとつは商店自体の形態の問題、もうひとつは「事情明細図」にみられる地主の家主との記載並列の問題、ひいては建物が実際そこにあったかなかったかの問題・・・などが考えられます。この出発点の視座からいいますと、わたしとものたがひさんの条件は同じ・・・ということになります。
次に、ものたがひさんが佐伯の風景に描かれた家とされる地図上のフォルムは、落合医院ではなく、のちの稲葉邸ではないでしょうか? そして、もうひとつの難点は、この当時の稲葉邸(?)は、目白通りにかなり接近して建てられている・・・ということです。佐伯の絵の家が、目白通りから20~30mは引っ込んで建てられているように見えるのに対し、この家は通りからわずか10m前後しか離れていないように見えます。
次に、くだんの掲載された地形図(早稲田・新井1/10,000シリーズ)ですが、わたしはこの地形図をイマイチ信用していないんですね。ひとつは、ものたがひさんも指摘されているように、あるべき街並みがまったく記載されていなかったり、地名を勝手に何百メートルも移動させてしまったり(例:前谷戸や不動谷の位置)と、考証には悩ましい点が多いからです。あるべき街並みが存在しないなら、逆にあるはずのない街並みが記載されてしまう事例だってあるだろう・・・ということで、たとえば同じ佐伯つながりで、「目白風景」の金久保沢を例にとりましょう。
同じ早稲田・新井1/10,000シリーズの1930年(昭和5)版では、「目白風景」の高田町金久保沢は、この地図表現のひそみにならえば全体が市街化、つまり家々が密集し建てこんでいる、全体が赤斜線のエリアで覆われています。(これは他の住宅密集地と比較しても明らかです) 佐伯が「目白風景」を描いてから、わずか4年後のことですね。ところが、そのさらに6年後、実際の空中写真を見てみると、いわゆる家々が密集している状態ではありません。崖線上の下落合(近衛町側)はかなり家々が建てこんでいますが、崖下の金久保沢はむしろ緑や空き地が多く見られ、家が点在する程度です。(この比較地図と写真をブログのほうへアップしておきます)
なんだか、当時のある特定の地図がいかに信用できないかを、ことさら証明するのは非生産的だし、気が進まない作業であることこの上ないのですが、論理的に反駁しようとするとどうしてもこういうことになってしまいます。当時、空き地や畑のはずなのに、市街地の表現がなされているところも、地図内を丁寧に探してみればまだあるのかもしれません。ほんとうは、1926年(大正15)の同図と空中写真を比較すればいいのでしょうが、残念ながらわたしの手元にあるのは1923年(大正12)から1930年(昭和5)へと、バージョンが飛んでしまいます。ただ、1926年の同図と1936年の空中写真とでは、その間10年の開きがありますので、上記のような「証明」は実質難しいのかもしれませんが・・・。
(つづく)
by ChinchikoPapa (2006-07-19 18:02) 

ChinchikoPapa

(つづき)
次に、なによりもわたしが不可解に思ったのは、1926年(大正15)当時、このエリア一帯に建築されていた第三府営住宅の記述がまったくない・・・という点です。つまり、同年の「事情明細図」では、すでに住人の名前までが各家にまんべんなく記載されている、これら住宅の密集地をなぜ見逃しているのか?・・・ということですね。ここは、地主のいる借家あるいは空き地とは異なり、府営住宅ですから名前の記載のある家々は、実際に建物が建築されて記載された名前の人たちが住んでいたはずです。でも、上掲の地図には等高線が描かれているばかりで、まったく周囲には住宅街がないかのような表現がなされています。
これらから導き出される結論は、ひとつです。早稲田・新井1/10,000地形図シリーズには、現実とは乖離した、あるいは地元・現場とはそぐわない表現(地名採集等も含め)が、一部には見られる・・・ということです。だから、目白通り沿いにまるで「商店街」があるかのような密集した家々の記号を入れ、その南側にある大きな府営住宅街を丸ごと見逃してしまうという作図姿勢から、はたしてどこまで信用していいのか見当がつかない・・・というのが正直なところです。
これは、あくまでも想像ですが、百歩ゆずって道路沿いに家々が建ち並んでいたとしましょう。しかし、この地図は大規模な府営住宅が南側に建設される前、つまりものたがひさんもご指摘のように記載が遅れている姿(しかもかなりの遅れだと思います)ということになりますから、それら道路沿いの古屋(商店ではない)が壊されて整備され、新たに府営住宅建設のために環境が整えられ、商店スペースも設けられた・・・という解釈さえできてしまいます。同じことが、落合医院(稲葉邸?)についても言え、その再開発の時点でもう少し南へと引っ込み、「事情明細図」に見える商店街のスペースを造った・・・とも想定できてしまいます。この一帯の下落合が、同年にもかかわらず上掲の地図と「事情明細図」との間で、大きく変貌していない・・・とは決して言い切れない可能性さえ、リアルに指摘できてしまいます。
次に、並木の問題です。(並木=行樹ではないでしょうか?) さて、これは論より証拠、実際の空中写真で見てみましょう。1947年(昭和22)に撮影された、目白通り拡幅(歩道の確保)のために両側の敷地がセットバックされた当時の写真です。そこには、目白通りの両側に延々と並木がつづいているのが見えます。もちろん、わたしの描画ポイントにも、両側にこの時期まで並木があったことがはっきりわかります。ところが、ものたがひさんが描画ポイントに指定されている位置には、北側の並木は確認できるものの、南側には並木が見られません。もともと並木がなかったのか、あるいはなんらかの事情で落合医院あるいは稲葉邸の前の目白通りだけ、並木が抜かれてしまったのかは不明ですが、並木有無の事実の指摘だけはしておきたいと思います。(記事末に空中写真を掲載しました)
つまり、ものたがひさんが描画ポイントとされる目白通りの南側には、地図に「並木」の記号がなかったように、当時から実際になかったのではないか・・・という可能性も指摘できます。同時に、わたしの描画ポイントの南側には(いえ、そこから東側の目白通りの南側すべてにわたって)、「並木」の記号が見あたらないにもかかわらず、空中写真にもあるように延々と並木がつづいていた・・・ということにもなります。上掲の地図を、どこまでが正確だとする軸足の位置によって、さまざまな解釈が成立してしまうのです。
by ChinchikoPapa (2006-07-19 18:02) 

ものたがひ

詳細なリプライ有難うございます。では、問題点を再検討していきたいと思います。
佐伯が絵を描いた時点で、目白通りの西の端に、どのような商店街があったかを1926年の「事情明細図」の情報から判断するのは難しい、という6月9日にC.P.さまに頂いたコメントは、わかります。
一方、この「一万分一地形図 大正十年第二回修正測図同十四年部分修正」の内容も、1925年の様子と一致すると思えないのも事実です。しかし、こちらは、とめどなく曖昧な訳では無く、大部分の内容は「大正十年第二回修正測図」のままであるけれど、どこかが僅かに「同十四年部分修正」されている、と理解すると適当になってくるのかもしれません。
と、すぐに気付くのだったら、まず、その点について、資料にあたってからupすべきでした。遅ればせながら、それをチェックしてみました。
「大正十年第二回修正測図」(大正12年発行)と上記の地形図の共通する場所を比べると、なんと、殆ど同じです。「同十四年部分修正」されたのは、恐らく、大きな公共的(?)な建築物だけなのです。例えば、現・目白学園のところにある「研心学園」、大久保町にある「陸軍技術本部」、中野町にある「同愛盲学校」等の学校です。民家・商店、その他の民間建築物、土地利用に付いて「修正」した気配はありません。
だから、1922年に第一文化村で分譲が始まった、目白文化村が無いのは当然ということになります。しかし、第一、第二府営住宅はあるので、大正十年(1921年)には、民家についても、「修正」されたのでしょうか。
そうすると、目白通りの商店街は、1921年の状態として、ある程度正確に表されている可能性も出てきます。(そもそも「地形図」がイマイチ信用できない、というご指摘に、実は心当りもあるのですが、漠然と疑ってもキリがありません。この場所について問題があるのか、ないのかを考えたいと思います。)それは、佐伯が描く5年ほど前の事になります。5年の間には、増えるもの、減るもの、変わるもの等、多々あるでしょうが、目白通りの商店街化が進んでいく事は確かです。
(つづき、並木問題を掘り下げたいのですが、すみません、少々お待ち下さい。)
by ものたがひ (2006-07-20 09:08) 

ChinchikoPapa

第一・第二府営住宅は、明治末から大正前期にかけて建築されていますので、1921年(大正10)には、すでに形成されていたのではないかと思います。だから、修正前の図からあったのではないでしょうか? わたしの手元にある1910年(明治43)、そして1918年(大正7)の同図にも、府営住宅はぽつぽつ描き込まれ始めています。ただし、後者は前者とまったく同じ表現ですので、きっと大正7年の地図では密集した第一・第二府営住宅が、実際は建っているにもかかわらず描き込まれていないのだと思います。
1921年(大正10)から1926年(大正15)までの変化を、公共的な施設のみの追加で、住宅街には手をつけていないとすれば、先の「百歩ゆずって」の仮定もできれば、あるいは修正年を銘記した(実はある特定の部分修正にすぎないことがわかるわけですが)この地図自体の、曖昧な表現や不正確さが確かめられこそすれ、減じないのではないか・・・というのが、わたしの感触です。
目白通りの両側は、時代とともにおそらく先へ先へと伸びていったという、ものたがひさんのご意見には大賛成ですが、いま課題となっているテーマは、どのような伸び方をしたのか、あるいは当時はどのような形態だったのか・・・という、もう一歩突っ込んだところのテーマです。ただ、ものたがひさんお書きのように、これは当時へタイムスリップしない限り確かめられませんので、残念ながら漠然としたやり取りにならざるをえませんね。
軸足を「早稲田・新井地形図」に据えるのか、あるいは「下落合事情明細図」に据えるのか以前に、これらの表記の信憑性を疑ってかかると、実は傍証資料の半分を失ってしまうことに気づき、愕然としてしまうのも確かなのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-07-20 21:01) 

ものたがひ

C.P.さま、お返事有難うございます。その後も、いろいろ思い浮かべて考えたのですが、陸測図(「地形図」を作ったのが大日本帝国陸地測量部であるための別名)では、「○年第○回修正測図」と、「同○年部分修正」の意味合いが、全く違うのではないでしょうか。今の地図でしたら、○年に修正したといえば、その年の実態が反映されていると見なすのが当たり前です。しかし、陸測図では、「○年第○回修正測図」の時は、測量もするし、全般の調査もするけれど、「同○年部分修正」の時は、大日本帝国陸地測量部にとって、重要なランドマークしか直さない、という基準があったように思えるのです。ですから、人々の暮らし、商店街や住宅地の形成を考えるときは、「同○年部分修正」は役に立たず、「○年第○回修正測図」の方で、地形図を読むべきである様に思われます。
なお、調べていましたら、陸測図の測量において、1929年に空中写真測量が実用化され、翌1930年には東京西部で、空中写真測量が始められた、という事を知りました。ということは、早稲田・新井の地形図の「昭和12年第四回修正測図」は、1936年の空中写真と繋がっている、ということでしょうか。ちょっと、具体的にチェックしてみたいですね!
by ものたがひ (2006-07-20 21:47) 

ChinchikoPapa

とても耳寄りな情報です。1930年(昭和5)に東京の西北部、つまり陸軍の施設が集中していた淀橋、四谷、牛込地区で空中写真が撮られはじめていたとしたら、戦災で焼けていなければ、あるいは敗戦時に機密資料としてネガごと焼却されていなければ、1936年(昭和11)以前のものが存在する可能性がありますね。
1936年の空撮は、明らかに全国規模で行われているのですが、そこに至るまでには、当然ながら「試験運用期間」があったように思います。わたしは、以前から1936年空撮が最古ではないと思っているのですが、それよりも古い空中写真は、もちろん首都圏に絞られて撮影されているだろうと想像しています。たとえ試験撮影にしろ、それらの成果物がどこからか出てこないものでしょうか? ものたがひさんの情報網を使われれば、判明しそうにも思うのですが・・・。(^^
by ChinchikoPapa (2006-07-21 00:23) 

ChinchikoPapa

ちょっと、待ってくださいね。いま、重要なものを発見してしまいました。
「赤いポツポツのついた線」は、行樹なんかではありません。そのままの表現どおり、なぜか目白通りから内側の敷地へ△状に切れ込んだ、妙なかたちの土地のスペースです。佐伯の絵にも、はっきりと描かれています。いま、わたしのPapalogの記事末に、絵の一部拡大画像を掲載しました。まったく「ポツポツのついた線」のとおりのものが、そこには見て取れます。
これは、いったい何なのでしょう? 電柱の敷設用に確保されたスペースでしょうか? また眠れなくなりそうな・・・。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-07-21 00:56) 

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