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『「道」の「道」』考

別館G.M.作業室へ、ようこそ。
さて、本館の『佐伯祐三は第二文化村周辺がお好き。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-02-26)と『「道」の下に「富永醫院」の看板があった。』(http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-07-27)とをふまえ、
問題の「道」の絵の、左に入る「道」について検討いたします。

本館C.P.さまの描画ポイントは、1947年の空中写真で考えると、おおよそ下記の様になるかと思います。

(…もう少し下がって、右の画角が広がるか…)
でも、この場合、「富永醫院」の△看板がある筈の、左手前の鈍角の角が、絵では鋭角に見えてしまっているようです。また、中央の道のカーブが、空中写真では右カーブというより、気持ちS字になっているようです。

私は、この「道」の絵の、左に入る「道」は、下の写真の指印が指す道ではないか、と考えます。

この場合、描画ポイントを考えると、以下のようになります。

佐伯の絵の、左へ入る「道」が左手前に来る様子と、こちらであれば良く一致すると思います。道のカーブも、すっきり右になります。つまり、またもや、描画ポイントを一寸動かしましょうよ、という提案となったのです。

余分な話ですが、この道のすぐ先にある、正方形の何かの敷地跡が、火の見櫓ではないでしょうか。佐伯の絵の画角の左外すぐにあることになります。
地形図(1921年/1929年でも等高線に大きな変化無し)で、これを見ると、

火の見櫓を緑の丸印とすると、こうなります。別の位置でも良いですが、佐伯の絵に入らず、かつ1947年の焼け跡写真で何かがあったらしく見えるところで、一番高度が高い場所は、ここです。佐伯は、「下落合でも有数の火の見櫓」の目の前に立ち、敢えてそれを僅かに外して描いたのでは、と感じるのです。

追加資料(060729)
1944年撮影の空中写真と、そこに見える(?)建物

左の正方形のようなシルエットが、火の見櫓か。
その右の長方形のシルエットはある程度高さがあり、ほぼ等高線に沿って建つ大きめの建物か(1936年には無いもの)。
?の所には、白く光る屋根の建物。絵の中の赤い屋根の家か。


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コメント 5

ChinchikoPapa

これは、どうやらご指摘の通りのようですね。1936年(昭和11)の空中写真には、この左の消防施設(?)へと斜めに入りこむ道が見えませんが、周囲の樹木が10年余の間に成長して、その切れ込みの道を上空から隠してしまっているのかもしれません。
この坂道が拓かれるとき、左右の土砂はそのまま残して、やや切通しのように掘削して貫通させたと思うのですが、いまは左右の段差となった土砂もきれいに削り取られて、左右の敷地および坂道ともに傾斜角が抑えられています。「道」で描かれたその段差が、いちばん目立ったところはどこか?・・・ということで、「富永醫院」看板のあった「道」の右カーブ坂のいちばん下を想定したのですが、おっしゃるように富永醫院へと左折する、葛ヶ谷と下落合の境界道にしては、左折角度がかなり浅すぎるような気がします。
いまは、ちょうどこの角地に交番が斜めに建っていて、角度的にもかなり浅めになっていますから、よけいにそのように見えて判断したのですが、1936年および1947年の写真を見ますと、「道」に描かれた角度よりはかなり鋭角ですね。
それよりも、むしろ消防施設?(1947年の空き地状に写るのが、火の見櫓か消防倉庫のような建物かどうかは断定できませんが)へと左斜め下へ入りこむ道のほうが、ものたがひさんのおっしゃるように、合理的に説明できるように思います。ちなみに、1944年(昭和19)の、「道」の空中写真を「富永醫院」記事末に掲載してみました。こちらのほうの写真には、どうやらなんらかの建物らしい形状が、森の中に確認できます。ご参照ください。
「道」のほうの画像および文章を、時間を見つけて修正しておきます。ご丁寧なご指摘を、ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2006-07-28 12:44) 

ものたがひ

お返事ありがとうございます。1944年の写真を拝見いたしました。気になる形が何となく見えるので、条件をいろいろ変えて、こちらでも見てみました。ほぼ西(左側)からのそんなに低くない光が射していることを考慮し、建物らしきものを、こちらの記事末に挙げてみました。どんなもんでしょう。
by ものたがひ (2006-07-30 00:12) 

ChinchikoPapa

1944年の写真に写る、まん中の大きな長方形は、はたして建物でしょうか? 樹木が右側の陰とともに、そのように見えているようにも思えますが。
戦後の1947年の写真を観察する限り、当該の場所には樹木が繁るだけで、建物があったような形跡が見えないのですが・・・。
by ChinchikoPapa (2006-07-30 19:50) 

ものたがひ

コメントありがとうございます。確かに、まん中の長方形は、樹木という解釈もできますが、その東側の黒い部分は他の所との比較してみて、「影」の様に思うのです。全体が何かの影だとすると、かなり背の高いものとなります。わりにきれいな長方形であるため、一応建物かと見なしました。
1947年の写真では、長方形に相当する、小さな正方形のような「跡」はありませんが、では、その上の太った三日月が寝転んでいるようなグレーの部分は、一体何なのだろう?との疑問も生じます。何か、傍証となるものが、欲しいところです。
by ものたがひ (2006-07-31 01:36) 

ChinchikoPapa

1947年の写真で、太った三日月型の空き地は、1936年の写真に写りこんだ、富永醫院前の道からカーブして入りこむ道と、なんらかの関わりがありそうです。その道のかたちは半円に近いですが、なんだかまるで水道塔のような円筒形の建物がそこに(半円道の北側に)あったような感じに見えます。
もっとも、この道は小さな四角い建物(消防施設?)へと抜ける道のひとつだったのでしょうか。建物が建っていたとしても、周囲の樹木を伐採していないので、道筋もよくわからない一帯ですね。
by ChinchikoPapa (2006-07-31 11:19) 

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