SSブログ

今は昔の「二ノ坂」の検分

別館G.M.作業室です。
本館の『「遠望の岡?』は二ノ坂だった。』を受けて、二ノ坂について検分をしたいと思います。
現在の「獅子吼会西・金山アトリエ北」の「くの字の道」は、1926年発行の事情明細図に載っていない新道ではないか、という私の仮説には、C.P.さまもマイケルさんも同意見というお考えですが、「遠望の岡?」描画ポイントは、お二人共「二ノ坂」である、とおっしゃられます。
『(「遠望の岡」の巻)』で私の立てた仮説、その後廃道となった「くの字の道」と、そこから現・獅子吼会吹き抜けマンションの南南東方向を望む「遠望の岡」描画ポイントに関して、まだ決定的な否定要素は出てきていないとは思っています。でも、かといって、目下(というよりも、きっと、いつまでも)その存在を証明する材料が無いのも事実です。
そこで、本館がupされた「二ノ坂」描画ポイントに関して、よく考えてみる事にいたしました。

佐伯の「遠望の岡?」の絵です。

現在の「二ノ坂」を、この絵の道の方向に留意して、写してみました。道の右端に、かなり寄った位置から描いています。イーゼルは、平地のような按配には立てにくそうな坂道です。道の右側にある「側溝」と「新東西道」の入口は、今では二ノ坂の道の幅の中に含まれていると考えました。絵の中の新東西道の入口には、ちょっと邪魔な線状のでっぱりがありますが、二ノ坂の斜面と新東西道の繋ぎ目のところは、今も無理して繋いだ感じになっています(でも、変なでっぱりです)。絵で、道の正面の突き当たりのようにも見えるところ(あるいは道全体)が、側溝方向に下がっているのが、現状との一番の違いでしょうか。しかし、そのころの地形を考えると側溝のあたりが低くなっていそうでもあり、その後修正があったと見ることができるように思います。

絵に、現在の道を埋め込んでみました。正面の建物の隙間から新宿方面を望むと、ほぼ、水平線の高さが一致しそうです。新宿東口の「ほてい屋」デパートも、絵の中央に来そうです。描画ポイントから道の突き当たりまでの距離の取り方は、佐伯の他の絵と比べると、意外に短いように感じます。左の竹垣の家、一軒分程度でしょうか。この門のある家が、1926年の事情明細図にあるものではないかという事は、「(くの字の塀の巻)」の付図に記しました。
道の向うの小さな家々は、1927年に中井駅が開設される方面にあり、事情明細図でも、かなり人家が密集していた事が伺えます。この道との高度差も、適当な感じでしょうか。


これらの状況を総合して考えると、ここを「遠望の岡?」描画ポイントとする必要条件は、ほぼ揃っているといえます。それでも、まだ引っ掛かるのは、道にあれだけ強いパースペクティヴ(遠近感)があるのに、「側溝」が、ほとんど等幅のまま伸びている事でしょうか。その幅も左の竹垣と比べて広すぎるような…そもそも、絵ではあるのですけれど。また、同様の条件の場所が他にないといえるか、という点です。
仮に佐伯が1926年秋にこの絵を描いたとして、丁度その頃発行された事情明細図に書き込まれている諸「事情」との一致点があったり無かったりする問題は、判断の難しい所ですが、竹垣の家が事情明細図に記載されている家であったとしたら、やはり面白いです。この頃、改変があったであろう二ノ坂は、旧道の時この家の北東をとおり、新道になると家の南西をとおるようになる筈なのですが(「くの字の塀」の巻の「二ノ坂・新旧の道」の画像等をご参照下さい)、何故そのような大掛かりな変化が必要とされたのでしょうか。
二ノ坂から、三ノ坂にかけての宅地化を控えたこの時期、斜面の雛壇化がなされましたが、同時に上下水の計画もなされた筈です。そして、水の流れのために下水の水路は、このような急な斜面において家々より低く設置される、と考えてみました。新しい二ノ坂が造られる必然性は、このあたりに見出せないでしょうか。そうすると、斜面上の宅地開発に伴う下水工事という、とても目新しい出来事を、佐伯は、まさに描いている事になります。
下水工事の問題は、三ノ坂が、この頃、旧道を廃止し新たに地面を掘り下げて造られたのではないかと、敢えて推測する事にも繋がってきます。つまり、「くの字の道」の巻に記した私の描画ポイント案では、道の右手にある茶色い部分が、ずっと低い位置にある現在の三ノ坂にあたるもので、茶色の右に沿ってある白い細長いものが、側溝ということになります。そして、先にある電信柱のあたりで、三ノ坂の傾斜が急に変わるので、あたかも道が途切れたように見える事になります。私には、どうも、そう見えてしまうのです。遠景に関しても、こちらのポイントでも大きな問題は無い様に思います。しかし、竹垣の家には実は弱っています。この位置に、事情明細図にない、このような家が既にあったと考える事にも、その後の開発の先駆けとしてあったと考える事にも、なんだか無理が感じられるのです…。うーん。というのが、今日の私の考察です。

1933淀橋区全図


nice!(0)  コメント(10)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 10

マイケル

ものたがひさん、またまた踏み込んだご考察に敬意を表します。私はやはり「遠望・・」は「二ノ坂」と考えておりますが、ものたがひさんあるいはCPさんの
お考えと異なる点を今一度整理しておきたいと思います。
1.金山邸は大正14年(1925年)4月に今の位置に完成しており、その工事は大正13年(1924年)から始まっていた(画集年譜を信じて)。したがって佐伯が描いたとされる大正15年(1926年)には「獅子吼会西・金山邸前の道」は殆ど完成していた。但し事情明細図にはタイムラグなのか書き込まれていない。従って「道がないからあの場所ではない」ではなく「道はあったが金山邸が建っているのだからああは見えない」。「それよりもっとそれらしい場所が二ノ坂上にある」が当初の描画ポイントを疑問視した所以です。
2.二ノ坂の移動については「本当にそんなのあったの」と疑問視しています。
事情明細図に登場する旧家の末裔に「敷地にかかる道が移動したと聞いたことがある?」と尋ねたとこと「聞いたことはない」と答えました。一族内で話題になったことがないのかもしれませんが、現在のあたりを見てもその気配も必然性も感じません。
3.二ノ坂・三ノ坂連絡路が新旧あったということについても疑問を持っています。連絡路に面する音井邸・小沢邸が急峻なあの位置に建ち得たのかという疑問。加えて昭和10年代において音井邸が今の中井2-13-1に玄関を二ノ坂に向けて建っていたとの証言(今初めて記しますが)あることから、連絡路をは今のそれ以外なかったのでは(新旧二本はない)と思っています。
4.三ノ坂の西への移動、言い換えると、嶌津源吉の所有地の異動(東側が削り取られた)。これも「そんなことないだろう」と思っています。
以上、いずれも詳細図を含めた「地図」に戦いを挑む話しなのでなかなか大変そうですが、とにかくそのような仮説を立て調査をしてみたいと思います。
取り急ぎ。。
by マイケル (2006-09-09 23:10) 

ものたがひ

マイケルさん、早速のご丁寧なコメントを、ありがとうございます。箇条書きして下さった問題に沿って、私の考えを整理してみました。
1. これに関して、私はマイケルさんと同様に考えています。ご紹介のあった金山平三の画集を見て、年譜に全体として具体性を感じました。1925年4月上旬の項の年譜の「大字下落合字小上千八十番地二十四号通称アヴィラ村」という記載の、1080が2080の誤植ではないか、という感触をもちました。24号の方は、「アヴィラ村」の内部的な地番という可能性は、考えられないでしょうか。
2. 大正末から昭和初期に、大規模な耕地整理・都市計画道路の敷設・一般道路の改修、舗装などがあったのは事実で、中の道でも、かなり道の流れが整えられています。個別的な二ノ坂については良く分かりませんが、二ノ坂(蘭塔坂)は、府道・町道の中にある重要な坂と位置づけられており(『落合町誌』1932)、早くから、きちんとされたと推定されます。
一応、測量に基づく筈の一万分の一地形図が、この場所の道筋において当てにならないと看做すのは、まだ早いと思います。もちろん地形図にも間違いはありえるし、陸軍が測量した軍事的な使命を持つ地形図には、意図的な改変があることも指摘されていますが、そういった懸念は二ノ坂には、ちょっと結びつけにくいです。
そこここで道路工事や宅地の造成が行われていた頃のことですから、関係者も特に伝承しなかったようにも思います。
二ノ坂の道筋が変えられたとすると、中の道からいきなり直登する感じが、左へそれて、少し和らぐように思えます。その分、佐伯の「遠望の岡?」に見えるあたりで急になったでしょうが、現在ではならされてしまったと理解されます。
3. 音井邸の位置と玄関についての情報は、事情明細図の読みを一変させますね!
4. 4と3を連動させながら、私も別の発想を検討したいと思います。
どうも、ありがとうございました!!
by ものたがひ (2006-09-10 11:33) 

マイケル

ものたがひさんご指摘の通り、金山画集の年譜は全体的な記述が極めて具体的であることからして、記載事実の信頼性はかなり高いと思っています。しかしながら、都合良く解釈する積もりはありませんが、1080はやはり誤植で2080が正当と考えます(我々にとっては罪な誤植ですね)。CPさんは落合内での転居の可能性を指摘されましたが、同年譜にそれが書かれておらず「最初から最後まで今の位置」と私は考えます。24号は分筆登記に際して付された番号であろう思います。その時代にあっても地所の特定は必要であり、我が実家にも4桁の番地についで二桁の番号が付されておりました。ご承知の通り「住所」ということになると4桁以下は書きませんが。

二ノ坂の移動ですが、ちょっと分からなくなってきました。佐伯があの辺りを描いた頃の二ノ坂は新旧どちらだったのでしょうか??
「遠望の岡」は今の二の坂の7・8合目から南を見たと思い込んでいますが、旧二ノ坂の時代であれば今の坂にポイントを求めるのは無意味となってしまいます。時代に応じた地図を所有しておらずピンボケな議論をしてしまっているようです。ご迷惑をおかけします。宜しくご教示下さい。

音井邸ですが、二ノ坂・三ノ坂連絡路が南にシフトしたとの説をとると、同邸は
それにともなって同様南にシフトされたことになります。なんとなく「なさそう」な感じがします。

以上、ご指摘への感想です。
by マイケル (2006-09-10 14:17) 

ChinchikoPapa

いろいろと用事が重なり、コメントリプライが遅くなってしまいました。

> 二ノ坂から、三ノ坂にかけての宅地化を控えたこの時期、斜面の雛壇化が
> なされましたが、同時に上下水の計画もなされた筈です。そして、水の流れ
> のために下水の水路は、このような急な斜面において家々より低く設置され
> る、と考えてみました。

ものたがひさんは、道路の側溝を下水路と想定されていますが、わたしは反対に上水道管の埋設ではないか・・・と疑っていました。いまでは、道の側溝は下水道でありドブだ・・・という観念が強いのですが、当時、たとえばお隣りの目白文化村を例に取れば、道の側溝に設けられた共同溝には、上下水管はもちろん、電源ケーブルまで走っていました。
従来、できるだけ斜面の傾斜角をゆるめるように、等高線を斜めに横切って設定されていた蘭塔坂(ニノ坂)が、なぜ等高線が密な急斜面を鋭角に横断するように切り拓かれ直されたのか?・・・というテーマは、地主の所有地再配分のテーマや、ひな壇による宅地造成計画の“あるテーマ”や都合によって、ニノ坂をそう設定するようになったのだろうぐらいに考えてました。ものたがひさんはコメントの中で、できるだけ傾斜をゆるめるためと書かれていますが、明らかに従来の蘭塔坂に比べて、少なくとも坂上部の傾斜は急激になっています。
この現象を、別の側面から説明がつかないか?・・・ということで考えていたのですが、1925年(大正14)の水源地工事に始まり、1929~30年(昭和4~5)ごろに全管通水して終了する、荒玉水道の工事に関係しているのではないかと考えました。これにはきっかけがあって、戦前の目白崖線上一帯の下落合は、水道の水圧が低くて困った、井戸水のほうが重宝した・・・というようなお話を、たまたま偶然に知ったからでした。つまり、長崎町の第七幹線から別れた落合町へ向かう少しあとの支線工事を想定して、このニノ坂周辺は開発されなかったか?・・・ということです。
換言しますと、野方の水道塔のみでは、水道水の圧力が不足気味になりそうな課題のひとつを解消するために、落合町全域へくまなく水道水を供給するためには、江戸期の水道(すいど)と同様にバッケ(目白崖線)の急坂の落差が最大限に利用されなかったか・・・というテーマです。落合町への給水、さらに絞り込めば佐伯のこの風景に見えている上落合一帯へ、じゅうぶんで安定した水圧で水道水を供給するためには、下落合の崖線上からできるだけ鋭角に水道管を下ろしてくる必要があったのではないか・・・という想像が働きます。あるいは、第七幹線の下落合から上落合へと抜ける支線路を中心に考えた場合、その計画に沿って、ニノ坂界隈が道筋まで含めて造成しなおされはしなかったか?・・・という問題です。

> 新しい二ノ坂が造られる必然性は、このあたりに見出せないでしょうか。
> そうすると、斜面上の宅地開発に伴う下水工事という、とても目新しい出来
> 事を、佐伯は、まさに描いている事になります。

目白文化村(第二文化村)の水道タンクを描く一方で、佐伯は荒玉水道の第七幹線に付随した支線工事現場をも描いてはいなかったか?・・・という想定もできますね。ちょうど佐伯がこの絵を描いているころ、長崎町では幹管の埋設工事が始まっていたのではないかと思います。
それから、金山アトリエの件は悩ましいですね。1936年(昭和11)の空中写真は別にしても、単に2080番地を1080番地と誤記した・・・という単純な数字違いだけでなく、1929年(昭和4)現在でさえ当該地は2015番地であり、こちらも解釈を間違えない限り生じない錯誤だと思うのです。
つまり、2015番地→2080番地、2080番地→1080番地と、二重の錯誤をしないと1080番地にはたどりつけないわけで、そのまま単純な誤記としてしまえるのかどうか、わたしはいまひとつひっかかりが残るのです。
by ChinchikoPapa (2006-09-10 23:51) 

マイケル

CPさんのご推論に役立つか否か分かりませんが下水道に関わる記憶をご紹介します。あの地域(中井2丁目)に暗渠の下水道が整備されたのは昭和36・7年頃で、それまでは道路脇に埋設されたU字溝に生活排水のすべてを頼っていました。三ノ坂が本格舗装されたのも同下水道工事の折と記憶しています。

金山邸の地番とされる2015は珍しく移転していない番号であって二ノ坂を上がりきった地点からは一段下がった(金山邸の南下)の音井邸・小沢邸の二邸のみをカバーしていたのではないでしょうか?? 1929年の地形図(ものたがひさんアップの)を拝見すると擁護壁の下が2015、上が2080と読めるように思うのですが。
by マイケル (2006-09-11 00:25) 

ものたがひ

マイケルさん、C.P.さま、コメントありがとうございます。まだ、私の考えは大して進展していませんが、とりあえず関係しそうなことを記します。
金山平三が落合内で複数の住居地を経た可能性ですが、1925年4月の現存アトリエ竣工以前の仮住まいは、ありえるかも、と思います。また、1925年4月にアトリエが竣工された、1080番地という画集の記載は誤植だ、とする立場としては、この画集以外の資料にあたる必要性を感じています。
佐伯が描いた二ノ坂は「新道」との仮定で検討しています。旧道には、側溝・擁壁など、コンクリートや石を使った構造物は無かったと思うのです。「新道」が地図上ではっきり認められるのは、1929年の地形図、と私は考えますが、1926年の事情明細図も新道と、みなしています。新道は現在の道筋と平面図的には一致しています。傾斜がどうであるかは分かりません。
それから、マイケルさん、あの、音井邸が「なんとなくなさそう」って、どういうことでしょう?事情明細図の音井邸南の東西道が、現・東西道で、2015番地だった、とは発想を変えれば、私にも考えられるのです。でも、そうすると、事情明細図の東西道が、二ノ坂を越えてそのまま東に続いているのが分からなくなります。二ノ坂の東では、もう少し北の、今も中井2-11-8の北にある道にクランクして繋がらないと、諸事情と一致しない感じがするのです。金山邸南に東西道を想定すると、その点が良かったのですが。
1929年の地図で金山邸が2015番地だったのは、C.P.さまが『この「く」の字のカーブには見憶えが…』の記事末にupして下さった、赤い階段が書き込まれている落合町全図です。地形図の方では2080番地に見えますが、大雑把な記し方でもあります。1933年の淀橋区全図という下落合4丁目の4桁番地を記した地図も、本稿の記事末に載せてみました。これを、どう読むか…(笑)。しかも、1933年なのに、二ノ坂/三ノ坂間の東西道の書き込みがないですね!
by ものたがひ (2006-09-11 08:25) 

マイケル

ものたがひさんからのお尋ねへのお答えも含めて若干補足させて頂きます。
「1080誤植説」に関して他の資料に当たる必要性、私も同様に考え始めております。どういう手があるのか少し考えてみたいと思います。
音井邸に関して「なさそう」と記した件、曖昧な記述で失礼しました。私の見方は正にものたがひさんが上に書かれたもので、私の「新旧二本は無かった」説の根幹をなすものです。要すれば、事情明細図の東西道は今の東西道そのもので、描かれた位置が少し北(坂の上)の方によっちゃったとの理解です。旧道があったと仮定して航空写真(あるいはGoogleMap等)を見ると金山邸(あるいはその東隣のお宅)と音井邸があの広さ(狭さ)の中に二邸建ち得たのかとの疑念を強く持ちます。二ノ坂以東の道との関わり(クランクになるべき)についてはものたがひさんのご指摘同様「明細図は本来クランク状に描かれるべきだった」との立場をとりたいと思います。
最後に「1933年の地図なのに東西道がない」の件ですが、私は、その東西道はかなり遅くまで(ひょっとすると昭和40年代まで)私道のままだったのではないかと考えるのです。ですから公道のみが記載された同図には描かれなかったのだと思います。何故そう思うかですが、あの道だけは最後の最後まで舗装されずに残っていたからです(私の通学路でした)。然るべき場所に行けば簡単に分かることかとは思いますが今日のところは「住民の記憶」として記させて頂きます。
by マイケル (2006-09-11 09:52) 

ChinchikoPapa

佐伯作品の道端に見えている少し大きめの側溝が、1926年(大正15)当時から造成されていたマイケルさんご記憶の下水用U字溝なのか、水道管の埋設も前提とした側溝なのか、当時の水道網図面があればすぐにわかるのですが、そこまでの資料は手元にありません。(マイケルさん、情報をありがとうございました) あるいは、道路(わたしは二ノ坂新道説ですが)を新たに造成したとき、水道管はすでに埋設済みで下水側溝のみが見えている・・・という解釈も成り立ちそうですけれど、仮定の域を出ませんね。
水道管は現在でもそうですが、のちの経年によるメンテナンスを考慮して、できるだけ道路に沿って埋設されるのが一般的だと思いますので、昭和初期の全管開通をめざしていた荒玉水道工事が認知されていたであろう当時、二ノ坂の道筋を変更したときに傾斜角や水圧の課題とともに考慮され、計画の中に含まれていたのではないか・・・という気が強くするのです。
それから、二ノ坂と三ノ坂とを結ぶ東西の貫道(こちらも新道説ですが)の位置ですが、わたしは斜面に大規模な擁壁を造成する際、金山アトリエ下の1段目(最上段)の擁壁の中に「消えている」と解釈しています。現在の地勢が、擁壁の築造(斜面をひな壇化するために、大規模な土盛りがあったと思われます)により“絶壁”のように感じられ、急激に下へと落ちこんでいるように見えてしまうのですが、「消えた東西道」は擁壁の上でも下でもなく、当初は斜面だったであろう中間、高度的に見ればいまに残る擁壁の真ん中あたりを通っていたのかもしれません。つまり、ゆるやかな/のような斜面に盛り土をして、Гのような地形にしてしまうわけですから、その斜面を横切る道路があったとしても痕跡すら残っていない・・・という気がしています。
この前提を考慮しますと、以前からわたしが書いていますように、/のような斜面をГのように造成し直すときに、/の斜面(傾斜)をベースに建てられていた家屋がなんの影響も受けずに、Гの上あるいはГの下へ建ったまま維持できるのかどうか?・・・という問題へと行き着きます。擁壁工事の前と後とでは、たとえ同じ方が住まわれていたとしても、家屋自体も大正期のままだったかどうかは別問題なのではないか?・・・というところに帰着してしまいます。
東西の道の位置が、一貫して同一の地形図で確認できればよいのですが、異なる地図間で比較し、重ね合わせているところがなんとなく歯がゆいところですね。ただ、年代を追って道筋をていねいに検証していきますと、どうしてもくだんの東西道が南に移動している・・・と解釈しなければ、道筋の説明がつかないのは確かなようです。
それから、ものたがひさんが記事末へ今回掲示してくださった地図ですが、わたしがもっとも参照しない1933年(昭和8)の「淀橋区全図」です。(笑) この地図、1933年当時の「淀橋区近未来地図」としたほうがいいのかもしれませんね。戦後に貫通する山手通りが開通しているように描きこまれ、1967年(昭和42)にようやく開通する十三間通り(新目白通り)まで描かれていますが、実際の道筋とはずいぶん異なっています。細かな道筋でも誤記や抜けが多く、「下落合事情明細図」のほうが「なんて正確なのだろう!」・・・と思えてしまいます。(笑)
公道と私道とを区別して、前者が優先して描かれている・・・というのでもなく、私道が描かれているのに公道がない・・・というケースもあって、未造成の道路も含め何を基準に描いているのか、この地図を眺めていますとアタマが痛くなってきます。(^_^;
by ChinchikoPapa (2006-09-11 13:19) 

ものたがひ

マイケルさん、こんばんは。東西道ですが、私は道は二本あった!と思うようになりました。事情明細図が、クランクしている道を十字路に間違えて書いちゃった、とは考えにくいです(かなり重要な「事情」です)。でも、音井邸・小沢邸南の道を記入するときに、省くはずだった両邸北の通用路の位置に記入してしまった、という誤記ならありえると思うのです。この両邸北の通用路は、二ノ坂東の1980番地の津田邸(事情明細図)の北辺の道とほぼ十字路になってくる筈です。
音井邸・小沢邸の通用路は、C.P.さまのおっしゃる、金山アトリエ下の東西道で(申しおくれました。C.P.さま、こんばんは!)、両邸ができて、その門のある南の道の方が重要になってきたとはいえ、本来は、二ノ坂を越えて東に続く結構大事な道だったのではないでしょうか。そして、擁壁が出来ても細々と、近年まで行き止まりの道にはなってしまったけれど存在した、と考えます。(つまり、金山アトリエ南で「上」の道が、殆どなくなってしまいました…。)
両邸の番地については、難しいですね。私が仮説『くの字の道』(「遠望の岡」の巻)の日に、「1925落合町/謎の道」として載せた黄色っぽい地図での1980番地との関係で、音井邸・小沢邸が2015番地だったのか2016番地だったのか、紫の東西道は両邸南の道なのか、北の道なのか、判断に迷っています。
by ものたがひ (2006-09-11 23:38) 

マイケル

ものたがひさん、こんばんは。ご説の通り、東西道は二本あり上の道の上(北側)が2015、上の道と下の道に挟まるところが2016、小沢・音井両邸はその2016にあったとなるとすっきりするのですが、事情詳細図とはあまりに違ってしまいますよね。1980の北限ラインと2015の南限ラインの位置関係も地図によってまちまちのようですので、これが真実だと確信できるにはさらに様々な調査が必要と思うばかりです。
by マイケル (2006-09-12 23:18) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。