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仮説『くの字の道』(「遠望の岡」の巻)/付・1936年空中写真の金山邸

別館、G.M.作業室です。
本館の『この「く」の字カーブには見覚えが…。』等の御考察とマイケルさんのコメントを念頭におきながら、「くの字の道」に関する仮説、ならびに佐伯の「遠望の岡(?)」の描画ポイントについての私の考えを記したいと思います。
私の立場は、事情明細図の謎の道はあった、しかし三ノ坂ではない、金山邸はあった、です。旧C.P.説とも、マイケルさん説とも違いそうですが、どうなることでしょう…!

では、まず「遠望の岡」「くの字カーブの道」「二ノ坂」に関わる場所の概観を見たいと思います。

佐伯が下落合風景を描いたのは、1926・1927年、現・西武新宿線が開通したのは1927年春ですが、この1921年発行の一万分の一地形図に、二ノ坂(赤い四角の付いている道)と四ノ坂(左端の道)はありますが、三ノ坂は見当たりません。中の道(下方の道)のすぐ上(北)の等高線は標高25mで、そこから2.5m毎の等高線が5本つづき、30m程の間に12.5m高度が上がる急坂となっています。その上は高度差2.5m以内の比較的なだらかな丘となり、北方の道に至る手前で、やや下りになっています。あまりの急坂のためか、南の傾斜地に樹木が植えられていることしか確認できない、宅地化されていない一帯のようです。

それが、1929年発行の地形図では、こうなります。1936年の空中写真、現在の道筋とも殆ど変わらない道が整っていることが分かります。
この急激な道路整備、宅地化の行われた期間の中に、佐伯の描画期が含まれています。
さて、本館の「遠望の岡」「くの字カーブ」で取りあげた道を、緑の線で示しました。(ピンクの線は、後述しますが、コンクリート等による塀です。)
この緑の道について、1926年発行の事情明細図で考えると、どうなるでしょうか。

私は、画面中央の「字」の字があるブロックの中に緑の破線で示した位置にあるのではないかと、考えています。その理由の一つは、先程から赤い四角を置いてある、二ノ坂の左(西)側へふくらんだ曲がり方のクセと、東西方向に走る道との関係にあります。事情明細図は、製図としては不正確でも、地域の「事情」を知るためには役立つように出来ている地図といえます。道の表現にも問題があるものの、このクセに関しては、他の諸地図・写真と比べ、注目出来るという仮説を立てています。
二ノ坂など、現在と同一視出来る道もありますが、三ノ坂の一部と音井・小沢邸南の道については、現在は無い、と見ています。べつの地図でも、同所を見てみます。

紫の道が、現在とは異なった所のある道と思われます。この地図では、三ノ坂である筈の道に明らかなクランクがあります。事情明細図の一年前の発行ですが、一致するところ、異なるところ、2080番地も含め、色々あります。
この地図と、先程載せた1929年の地形図を、ちょっと遊んで重ねてみました。

二ノ坂・四ノ坂と南北にある道の交点を重ねてあります(茶色の点)。「くの字」の道の両端が、緑の点。二ノ坂と三ノ坂の間のコンクリートの塀の両端が、ピンクの点です。
1925年の地図には、地形図のような形の正確さはないので、乱暴と言えば乱暴ですが、緑の点の先程の推定との一致は、全体の状況から見て、注目してよいのではと思います。また、ピンクのコンクリートの塀が、1925年の地図では道であったところと一致している点にも、注目したいと思います。
さて、このピンクのコンクリートの塀は(塀というより護壁と言った方が適当か?)、現在もある、金山邸や、獅子吼会の吹き抜けマンションの南面下にあるものとなります。地形図ではやや緩い斜面に見えますが、南の急斜面の余波があった可能性もあります。しかし、兎に角、以前はなだらかに周囲につづいていたであろう丘に、コンクリートで階段状の整地がなされた訳です。1929年の落合全体を見ても、まだ類例の少ない開発です。中井駅に近く、かつ急な斜面があったからでしょうか。
階段状の整地がなされる前は、中の道に落ち込んで行く様な地形の手前に、等高線にほぼ沿った道があった、そこから斜面を直降する道も、二ノ坂と四ノ坂の距離を考えればあっても不思議ではない(所有者の違いなどの理由があれば、なおのこと、できるかもしれない)、と考えています。また、コンクリーの護壁は三ノ坂の方まで入り込んでいます。三ノ坂の東と西では恐らく東の方が高くなっており、この護壁を作って整地した際、現在の中井2丁目13番地より低い位置をとおる三ノ坂が出来たのです。
次に、一応、三ノ坂のようにも見える、謎の道の護壁の上の部分はどうなっているのだ、という問題が出てきます。私は、それを以下のように考えます。

1936年の空中写真を見ると、護壁と推定されるピンクの線と、金山邸などのあるブロックに黄色い線で示した辺との間に、樹々とその影のような、ものが写っています。これは、恐らく、傾斜地ないし、盛り土をした地盤の弱い土地ではないでしょうか。(それから、西日で南北方向に流れる屋根は、はっきりは見えませんが、私にはこの写真に金山邸が写っているように感じられます。)整地前の謎の道は、この斜面より、わずかに高くて平坦に近い位置で、「くの字の道」の西側を北上していたと思われます。事情明細図や1925年の地図では、少し直角より開いて曲がる道に見えます。その先の、事情明細図と1925年の地図で、意見の分かれている(?)あたりについては、私には、どういうことやら、さっぱり分かりません。
「くの字の道」は、このコンクリートによる護壁工事と、ほぼ同時に造られたのではないでしょうか。丘の上にも開発ブームがあったでしょうし、また、上記の無くなってしまった道の代わりの道も必要だったと思います。
但し、この考え方の場合、事情明細図と1925年の地図で、「2015」番地とされている場所が、1929年以降では、「2080」番地になってしまいます。しかし、1929年以降「2015」番地になった所は、それまで、「2016・2017・2018」番地だったのです。この件については、「2080」「2096」番地と一緒に、C.P.さまが調べて下さいますね!
さて、この辺で、冒頭の絵の描画ポイントの問題に入ります。

描画ポイントと視線の中心線は、およそブルーの線上にあります。謎の道は、薄いブルーの中にあると考えられますが、更に佐伯の絵から考えると、この視線の中心線のすぐ東となります。薄いピンクの場所は、金山邸のブロックから一段下がった雛壇状に整形された宅地用地です。謎の道は、雛壇になる前の、急に勾配が変わる、この坂を直降していたと思われます。佐伯がこの絵を描いたのは、まさに、雛壇状の整形工事が進行している折です。
画角は、両側の細めのブルーの線で示してあります。片側では、護壁の下に出来る三ノ坂と、その西側に整形される宅地が、少し見えます。もう一方では、金山邸が入ってしまう筈ですが、描画ポイントのすぐそば、空中写真の「く」の字のあたりにある家の竹の(?)垣根に遮られて見えません。

絵のブルーの部分が、謎の道だった所です。つきあたりは、もともと急激に傾斜が変わっていたか、雛壇状の整地工事の掘削がはじまったためか、突然先がなくなるように見えます(左へ曲がる感じはあるけれど)。むこうには、新宿東口方面を遠望するパノラマが広がります。手前には、傾斜地の下の家の屋根がのぞきます。画面で謎の道の右手になる部分はおそらく斜面です。謎の道と一体化して見えるため、とても幅の広い道に見えます。しかし、竹垣との大きさの関係を考えると、ここにあったであろう道の幅としては、それでは広すぎるように感じます。謎の道の先端にいる人物の大きさは、明らかにデフォルメがあると判断しますが、佐伯は遠景の人物は小さめに描くけれど、下落合風景の道や家の関係については、かなり実景に忠実だった、と今までのC.P.さまの御考察からも想定されます。その下は三ノ坂になる所と、三ノ坂の西側の宅地用地の小さな雛壇と思われます。
私がC.P.さまの「遠望の岡」描画ポイント(本日からは旧・特定ポイント、とすべきなようですが)に微妙な違和感をもったのは、謎の道の先が無い感じを、一番の理由としています。そこで、かなりの推論を重ねました。そして、こんな風に思っているのですが、この仮説に何やら大きな不具合あるのでしょうか?皆様のお考えを伺えると有難いです。

付・1936空中写真の金山邸(文化村上空)
別館が、空中写真の金山邸の部分について、どう読んだかを、記し添えます。


もとになる写真


別館の解釈

破風が東西方向を向いている金山邸の母屋のシルエットと稜線を、小豆色で示します。(北向きの屋根の方が広い感じもでていると思います。)
その南の方の不定形の形は、植物と考えます(みどり色)。
家の北側にかかる少し濃いグレーの斑は(水色の部分)、本館の「上落合上空」の写真を参照すると判然としなくなるので、実体を伴わない不明の着色と考えます。

マイケルさんは、どう読まれたのでしょう?


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ChinchikoPapa

さっそく拝見させていただきました。消えてしまった道、あるいは新たに造られた道については、ものたがひさんのご意見とほぼ一緒です。ただ、ものたがひさんが重視している道筋のポイントと、わたしが重視している道筋のポイントが多少異なります。これは、描画ポイントに直結する問題として重要です。それは、大日本獅子吼会から下の、二ノ坂の形状変化です。わたしのブログの記事末に、ものたがひさんのマネをして透過図を作ってみました。別ウィンドウ表示で、本文章と見比べながらお読みください。
●1925年(大正14)+2006年GoogleMap
消えてしまった三ノ坂の原型のような道筋については、ものたがひさんと同意見です。この道筋は、北の尾根道から現在の三ノ坂よりやや西側から南へと入りこみ、途中四ノ坂へと抜ける東西の道と重なるように見えつつ、「遠望の岡」の旧・描画ポイントで直角に折れて、南へ一気に下っていきます。消えた坂道の出口は、現在の三ノ坂とほぼ同じ地点で中ノ道(バッケ下の道)に合流しているのが興味深いですね。
それから、小沢さんちの南の道が消えているのも同意見です。本来なら、二ノ坂を突っ切ってさらに東へと向かう道と十字路を形成していたはずですが、いまはこの道はありません。おっしゃるとおり、金山アトリエや吹き抜けマンションなどの建物を支える、宅地造成のコンクリート「擁壁」で固められてしまっている箇所です。そして、この埋められた道のかわりに南側へ1本、新たな東西の道が追加されています。
この部分の透過図をご覧いただくとおわかりかと思いますが、蘭塔坂(二ノ坂)の形状が、1925年(大正14)当時と現在とでは、大きく道筋が変わっている、つまり独特なカーブが出現していることにお気づきかと思います。そして、このカーブは翌年に作成された「下落合事情明細図」には、すでに反映されています。でも、小沢邸下の道はそのままで、1本南の道もまだ描きこまれていません。同様のポイントは、「早稲田・新井1/10,000地形図」の1923年(大正12)と1930年(昭和5)を見比べても、後者のカーブがかなり深くなっているのがわかります。これは、いったいなにを意味するのか?
佐伯祐三がこのあたりの「下落合風景」を描いたときに、ものたがひさんも言われているように宅地造成の真っ最中で、道筋を修正している“工事現場”だった・・・ということだと思います。そして重要なのは、コンクリートの擁壁が多数描かれた宅地のカーブ、つまり二ノ坂の最終カーブを、佐伯はすでに描いていることです。ものたがひさんが「遠望の岡?」の描画ポイントとされる消えてしまった道筋ですが、わたしの感触では道幅が広すぎるのです。同じ時期に、すぐにも造成されたであろう三ノ坂の道幅もかなり狭くて、この絵のような幅はありません。
おそらく、ものたがひさんも推測されていますが、1929年(昭和4)以降に造成されたのであろう、大日本獅子吼会の西側から金山アトリエの前へとさしかかる道が存在しないとなると、「遠望の岡?」とほぼ同様の高度で、画角的にも「ほていや」デパート(伊勢丹)の茶色いビルが正面に見え、たっぷりとした道幅とともに突き当りが左へカーブしていく道は、ただひとつ、二ノ坂しかありません。そして、この絵の道の右端に、白くコンクリートで右手へと向かう入り口のような舗装面が描かれていますが、これが造成中あるいはすでに貫通していた、小沢邸の南道から1本南へ下った、新しい道路の入口だと考えます。すなわち、①のポイントから造成されたばかりの坂道を坂下を向いて描かれたのが「遠望の岡?」、そして「遠望の岡?」の突き当りを左へ曲がり、10mほど行ったところで描かれたのが、宅地造成されたばかりのコンクリートひな壇が並ぶ「二ノ坂」の『下落合風景』ではないかと考えます。
昨日、二ノ坂と三ノ坂界隈をウロウロと歩き回って、消えてしまった道跡や新たに貫通した道などをまとめて撮影してきたのですが、二ノ坂の同所も撮影してきています。これも、透過地図の下に並べて掲載してみました。いかがでしょう?
by ChinchikoPapa (2006-08-28 16:45) 

ChinchikoPapa

空中写真を、早くも追加されてますね。わたしは、敷地の中央に大きめの突起物(小屋?)、その北側と東側になにかが置かれているのか、あるいは樹木か、小さめの突起物があるように見えてしまうのです。
それにしても、コンクリートの擁壁までが描きこまれた古地図をお持ちだとは、うらやましいです。いまでも、どこかで手に入るでしょうか?
ところで、消えた道筋とともに「遠望の岡?」の描画ポイントについこだわってしまうのですが、「く」の字カーブが描かれた『下落合風景』の描画ポイントは、さてどこでしょう?(爆!) もう一度、イチから探しなおしでしょうか。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-08-28 17:05) 

ChinchikoPapa

もうひとつ、記事末に・・・
●1925年(大正14)地図+1936年(昭和11)空中写真
・・・の透過図を追加してみました。黄色い破線の部分が、二ノ坂を2作品描いたと思われる佐伯の描画ポイントには、重要な新造成道路だと思います。
by ChinchikoPapa (2006-08-28 21:16) 

NO NAME

CP様、ものたがひ様
お二人には僅かの間に濃密なご見解・情報をアップ頂きそのご熱意と作業能力に恐れ入っております。後ほど熟読の上改めてコメントさせて頂きますが、今晩は一読させて頂き気がついた点を2・3書かせて頂きます。
1.ものたがひが事情詳細図に書き込まれた「遠望・金山道」の道は100%
賛成であります。
2.「金山邸が14年当時存在した」説については申し上げるまでもなく私も同じ意見です。画像の右上が特徴的なことは現状の屋根の形状(その部分の傾斜が緩い)にも一致します。
3.CPさんが新たに「新・遠望の岡」描画ポイントとされる所は先日来私が推定している場所とほとんど同じでありCPさんの推定を支持させて頂きます。
4.小沢さんちの前の道・・・私の子供の頃、防護壁にそって細い道が10mほどありどなたかの家に突き当たっていました。その道がそうだったのでしょうか。その道の北側に小沢さんちが立つ余地があったのでしょうか?防護壁が出来る前においても極めて急峻であったと思われます。
5.ものたがひが新たに推定された「謎の道」、上記と同様、斜面のきつさからしてあり得ないように思われます。
6.「1925年の地図を読むと我が実家の位置はなんと2080です。。
また改めて・・・。楽しくなってきました。。
by NO NAME (2006-08-29 00:27) 

マイケル

上記コメントの筆者はマイケルです。筆者名の入力を失敗しました。失礼しました。
by マイケル (2006-08-29 00:29) 

マイケル

上記2の「右上が特徴的なことは現状の屋根の形状(その部分の傾斜が緩い)にも一致します。」ですが「傾斜が緩い」ではなく「小さな屋根が付け加えられた状態」とでも書くべきでした。思い違いを訂正します。
by マイケル (2006-08-29 00:51) 

ものたがひ

C.P.さま、マイケルさん、コメントありがとうございます。お二人共、二ノ坂ですか! 「くの字カーブ」の事ばかり考えていたので、虚を突かれました。しかし、そういえば、1925年の地図の二ノ坂に、三つ目の赤い四角印を付けられなかった時、違和感はありました。二ノ坂も、よく検討したいと思います。
ただ、私の説の「遠望の岡?」の描画ポイントから見た「くの字」の道の幅に関しては、幅の狭めの「くの字」に、隣接する斜面の地面が合わさって、佐伯の絵の中の「道」に見えていると看做しているので、特に不自然とは思っていないのです。
それから、マイケルさんの、上記の「4. 小沢さんちの前の道・・・」のコメントに、大注目です。マイケルさんがおっしゃっているのは、防護壁の下にあった道なのか、上にあった道なのか?私は、この道を「上」に想定しているのですが…。
緑の破線で事情明細図に書き込んだ金山邸前の「くの字カーブの道」は、赤い四角印との関係優先で書き込んだため、2015番地の小沢・音井邸との間に隙間ができていますが、私は、この場所も、現在の、獅子吼会吹き抜けマンションと金山邸とその東隣のお宅に含まれていると考えています。また、事情明細図では、小沢・音井邸は南面する道(コンクリートの雛壇が、その「下」に造成された時、廃止された道)に面して門があるので、家があったとも思うのです。だから、金山邸が建った時点で、それらはどうなっていたのでしょう、と一寸悩んでいます。そして、この道は、黄色い線とピンクの線を書き込んだ空中写真の画像でいえば、ほぼ、黄色い線の所になるのではないかと考えています。
1965年の『住居表示新旧対照案内図』には、中井2-13-7の北側に東へ入り行き止まりになる道があります。これは、私には防護壁の「下」の道に思えます。マイケルさんが、子供の頃知っていらした「防護壁にそった10mほどの細い道」は、こちらでしょうか。この道は、奥の家々のお勝手口ための道、事情明細図の道とは異なる由来の道かと推測しています。
ところで、「く」の字カーブが描かれた『下落合風景』の描画ポイント、に関し、私はある推定をしています。「黄色い線」は、「(逆)くの字」なんですよね。また、最初にマイケルさんが、この絵の道の勾配についてご指摘されていましたが、、黄色い線は、二ノ坂に向かって下っていたと思われます。いろいろな面で、かなり、良さそうなんですけど…。
by ものたがひ (2006-08-29 08:43) 

ChinchikoPapa

>幅の狭めの「くの字」に、隣接する斜面の地面が合わさって、佐伯の絵の中
>の「道」に見えていると看做しているので、特に不自然とは思っていないの
>です。

わたしには、作品に描かれた茶色い土砂状の地面全体が、造成された道のように見えてしまいます。右手には、すでにコンクリートないしは大谷石による縁石が埋められ、下水の側溝のようなものまでが見てとれます。正面の電柱の向こう側にも敷地が見え、背の低い植えられたばかりと思われる樹木が繁っていますので、おそらく同様の宅地でしょう。
二ノ坂ですと、ちょうどここに和洋折衷の瀟洒なお宅が現存しており、散策マップの左端に「▲個」を記載した地点となります。

>2015番地の小沢・音井邸との間に隙間ができていますが、私は、この場
>所も、現在の、獅子吼会吹き抜けマンションと金山邸とその東隣のお宅に
>含まれていると考えています。

わたしが、うかつにも現状の道と1926年(大正15)の道筋とを混同していたことに気づき、もう一度斜面の地図と空中写真を洗いなおしたにもかかわらず、いまだ金山アトリエの有無にこだわるのは(^^;、写真のフォルムや地番の相違(大正14年当時)も大きな要因なのですが、ご指摘のように大正期の道筋をたどると1926年(大正15)現在の金山アトリエの敷地には、小沢邸と音井邸が両家とも南(南面の道)へ門口を設けて、おそらく玄関へは上り坂か階段を設けて建っていたはずだ・・・ということに突き当たるからです。(道の上下はあるにせよ、いずれにしても南斜面です)
もちろん、マイケルさんご指摘の「事情明細図」の制作リードタイムを考慮し、過渡的な姿の地図であることを前提としても、そこが「金山邸」ではないという事実は残ります。これは、1936年(昭和11)の空中写真に金山邸が写っているか否かとは、時を隔てて別のテーマを提起していると考えています。

>「黄色い線」は、「(逆)くの字」なんですよね。

ピンクの線とともに、空中写真へ記載された「黄色い線」のことだとしますと、「逆」ではなく「(正)くの字」ではないでしょうか?

>いろいろな面で、かなり、良さそうなんですけど…。

ということは、ものたがひさんは「黄色い線」の下部クランク、先に見えている斜面は中ノ道へと向かう南進の道(これも失われた道)があるあたり・・・ということでしょうか。この失われた道が「くの字」カーブだとすると、その地形や位置はわたしとしても納得はできます。
ただ、空中写真の陰影から道の残滓を判断しますと、「黄色い線」のような形状に見えますが、地図からのみで想定しますと上部クランクの角度はT字路状になっていてかなり深い・・・という感触が残りますね。
by ChinchikoPapa (2006-08-29 14:18) 

ものたがひ

C.P.さま、こんにちは。ほかのことは、ちょっとおいておいて、「逆」ではなくて「(正)くの字」であると、謹んで訂正いたします。
by ものたがひ (2006-08-29 15:16) 

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