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『当時も妙正寺川は溢れていたのか。』考、その2

別館、G.M.作業室です。
本館の写真のupにあわせ、「『曇日』の地点よりは少し中井駅寄り」と「中井御霊神社のあたり」として、地形図の「え」と「あ」の地点を選び、シルエットを起こしてみました。…恐いほどの急坂です。
  *仮に、標高25m(紺の線)と標高37.5m(オレンジの線)の間を、バッケと考えています。

しかし、『曇日』のあたりの「い」「う」では、私の考える描画地点方面から見ると、こんな感じです。
そして、画角内に(2本の黄色い線の間)、「い」と「う」を大体の比率をあわせて入れると、下の図のようになるかと思います。家々の大体の位置も入れてみました。
バッケは青い家と赤い家の間から立ち上がり、緑の家の上をGの所を緩く通っていると考えられそうです。

バッケは、当然、画面入るのです。しかし、低湿地の霧のためか、その日はGで僅かにのぞくだけだった、というのが『曇日』の仕掛けだと私は考えています。

追記。現在の「い」のあたりの坂の印象は、この図よりキツイ感じがします。しかし、それが等高線の間隔の誤りに、つながるのか。その後の整地は、どうなっているのか…。


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コメント 2

ChinchikoPapa

ものたがひさんが引用されている地図のあとに整地が行われたか、あるいは等高線が正確でないのかは判然としませんが、「曇天」にすぐ上の中井御霊神社や城北学園(現・目白学園)のある尾根道がまったく見えなくなるほどの濃い霧が出ているとも、一見思えませんし、中井御霊神社の一部境内までが画角に入っているならば、「曇天」のような風景にはならないと思います。
また、現地は「い」のような傾斜ではなく、強いて言えば等高線の25mと35mの中間あたりで「え」に近い傾斜があります。むしろ、佐伯がバッケを描かなかった・・・としたほうが、まだ説得力があるように思います。「あ」の断面は、ほとんど絶壁そのもので道も通いません。図版「あ」では、まだまだ角度が緩すぎます。道を西側から山道のように、ジグザクにつけざるをえなかったのが中井御霊神社の南東、番地の「2164」あたりです。ようやく傾斜図版の「あ」に近いのでは・・・と思われるあたり。「え」は階段状になっている地形で、図版「え」よりも角度がもっと急だと思います。
つまり、ものたがひさんの画角ですと、佐伯はバッケを描いていない・・・としたほうがはるかに自然なのです。わたしは、霧に隠れているようには見えませんし、またこの位置から、すぐ左手上に仰ぎ見る中井御霊神社の境内が(前方の家々は見えているのに)、隠れてしまう・・・とも思えないんですよ。
by ChinchikoPapa (2006-05-31 00:39) 

ものたがひ

コメントありがとうございます。更に詳細に検討したいので、少し時間を下さい(^^。
by ものたがひ (2006-05-31 14:33) 

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